「失敗したら、独りぼっちになってしまう」という思い込みを持っていることに気が付いた。
頭では、独りぼっちにはならないし、独りぼっちになったとしても寂しくないと思っている。
けれど、心の奥底では、失敗に対して、恐怖を感じている。
こそ囚われから開放されため、自分にとっての「失敗とは何か?」について考えてみた。
自分で完結することは、失敗ではない
失敗とは何かを考えるにあたって、最近起きた出来事を振り返ってみた。
例えば、一人暮らしをしているので、料理を自炊している。
基本的には、自分で作る料理は、どこで食べるものよりも美味しいと感じている。
しかし、すべて美味しいと思っているわけではない。ごく稀に、美味しいと思えない場合もある。普通の人は、やらないような方法を試しているので、不味いものだって作ってしまう。
「美味しい料理を作ることに失敗した」わけだが、あまり失敗したことを落ち込むことはない。
この失敗を恐れて、料理を作ることが嫌になるなんてこともない。
むしろ、一つの学びとして、ポジティブに受け止めている。
「ダメだった料理法を知ることができたから、次に活かすことができる」と肯定的に受け止めている。
他にも、予定よりも起きる時間が遅くなってしまったりだとか、洗濯をしていたことを忘れて洗濯物を洗濯機の中に放置してしまったりだとか、一人暮らしをしていたら失敗ばかり起こる。
だけど、これらの失敗に対しては、なんの恐怖も感じない。
他人からの評価によって、失敗が決まる
じゃあ、恐怖に感じてる失敗はどこか?
パッと思い出された事例は、他人が関係している時。
思っていることを口走って、「お前の言っていることはおかしい」と、拒絶反応をされたときは、「伝え方を失敗した」「間違えた発言をしてしまった」「口に出さなければよかった」と落ち込む。
良かれと思ってやったことが、「〜だから、こうしていたのに」と、他人にとっては迷惑なことだったりすると、「自分の考えが浅はかだった」と落ち込む。
このような、他人が絡んだ失敗をしてしまうと、非常に恐怖を感じる。胸の奥が、ギューーーっと締め付けられている感覚を覚える。
「お前は、口を閉じて、そこでジッとしていろ」と言われているようだ。
つまり,自分にとっての失敗とは、他者からの評価によって決まっいてる。
例に挙げたケースだと、自分の起こした行動が、相手にとって不快だったと感じることだったから失敗だと感じる。
けれど、同じ行動をとったとしても、相手によっては、好感的な行動な場合だってよくある。
その時は、当然、「失敗した」だなんて思わない。
思っていることを口走ったり、良かれと思ってやったことに対して、「ありがとう」と言われたら、それは成功だ。「やって良かった」と嬉しい気持ちになる。
これで、「失敗とは何か?」の結論が出た。
人を不快な気持ちにさせたら、僕にとっての失敗。
自分自身ではなく、他人によって、行動の良し悪しをはかっている。他人軸で生きていると言っても過言ではない。
人を不快な気持ちにさせても、自分は大丈夫
ここまで分かったら、失敗に対する恐怖を打ち消す方法も見えてきた。
生きている中で、人を不快な気持ちにさせないことは、絶対に不可能だ。気を付けることはできるかもしれないが、それでも限界はある。
だから、人を不快な気持ちにさせないことは、不可能であると認める。
その上で、「自分は、人を不快な気持ちにさせても、決して価値がない存在ではない。それ以上に、人を喜ばすことができている」と、思うことができたら、きっと失敗に対する恐怖は無くなるはずだ。
さらに、人を不快な気持ちにさせたとしても、それは、不快になった他人の問題。他人が勝手に、不快な気分になっているだけ。「自分には関係ないことだ」と心から納得できたら、問題は解決する。
ここまで出来たら、他人の顔色を伺って、自分の行動に制限をかける生活から脱却することができるはずだ。