「いつもと同じ」
この言葉には、安心感と危うさが込められている。
いつもと同じということは、慣れていることを繰り返せばいいだけだから楽だ。
しかし、時代の変化に対応する力が衰えてしまうから危険だ。
だから、僕はこの、絶対安心領域から抜け出したい。
いつもと同じは怖くない
- いつもと同じ通勤経路
- いつもと同じ仕事のやり方
- いつもと同じ注文
いつもと同じであれば、失敗する可能性は低い。いつもと同じであれば、”いま”頭を働かせる必要はない。いつもと同じであれば、周囲の目線を集めることも少ない。
いつもと同じという言葉には、甘い安心感が含まれている。
中毒性の高い、お砂糖を舐めているようだ。
また、やったことないけど、ある程度予想が付くことなら怖くない。
- いつもとちょっと違う通勤経路
- いつもとちょっと違う仕事のやり方
- いつもとちょっと違う注文
未来が想像できることなら、抵抗なく挑戦することができる。起こる出来事に対する不確実性が、グッと下がるからだ。
これら”いつもと同じ”と思われる行動のことを、”絶対安心領域”と名付けた。
失敗の恐れもなくて、未知の恐怖もない。つまり、リスクが存在しない領域だ。
絶対安心領域を抜け出す恐怖
しかし、絶対安心領域に居座っていることは、非常に危険なことだ。
変化が激しいと言われる時代の中で、変化をしないことは本当の意味で危険だからだ。
カゴの中で育った鳥が、大空での羽ばたき方を忘れてしまうように、絶対安心領域の中で育った人間は、変化という未知の生活の中では生きられなくなってしまう。
だから僕は、早くこの絶対安心領域から抜け出したい。
もっと自由な生活を送りたいと願ってから、3年は経過した。その結果が、”いま”だ。
この間に、ありとあらゆる挑戦をしてきたつもりだ。多くの人からは、きっと賞賛されることばかりなはずだ。それなりの努力もしてきた。
けど、全然、満足いく毎日ではない。
その理由が、絶対安心領域から足を踏み出していないからだ。ある程度、予想できる範囲でしか行動をしていない。変化を起こしていない。
それゆえに、大きな失敗をしたことがない。いや、おそらく30年近い人生で一度も、大失敗といえるものは経験したことがない。
けれど、そんな生活に、終止符を打ちたい。
レベルアップしていない自分に、嫌気がさしてきた。自分の人生を俯瞰してみたときに、面白味に欠ける。面白いストーリーには、大失敗が必要不可欠なのだ。
ただ、怖い。
失敗するかもしれない。失望されるかもしれない。頑張れないかもしれない。誰も応援してくれないかもしれない。見放されるかもしれない。苦しむかもしれない。泣いてしまうかもしれない。
最終的には、死んでしまうかもしれない。
それでも、現状に満足していない以上、絶対安心領域から抜け出さなければいけない。
でなければ、”いつもと同じ”だ。